2020/7/23 UP!
毎週木曜日は、「Daiwa Sakura Aidダイワ サクラ エイド
〜BLOOMINGブルーミング LIFEライフ〜」!
日本が誇る歴史や文化、芸術の素晴らしさを次の世代に伝えることで、
みなさんの“花咲く毎日”を応援していきます。
日本の漫画の父、手塚治虫さん。
「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」「火の鳥」など、
60歳で亡くなるまで、生み出した作品タイトル数は、およそ700本。
のべ15万ページを超えています。
そんな手塚治虫さんは、1928年、大阪府豊中市生まれ。
小学3年生で自らをモデルにした漫画をすでに書きあげ、
クラスメートはもちろん、先生たちの間でも評判になったといいます。
戦争体験から、命の尊さを知り、医学の道を志しますが、
選んだ道は漫画の世界。そこから、数々のヒット漫画を生み出します。
また、手塚さんは、日本におけるアニメーションの先駆者でもありました。
日本初の長編テレビ・アニメシリーズ「鉄腕アトム」や、「ジャングル大帝」
など、ブラウン管を通して、“動く漫画”を浸透させたのです。
アニメーション映画監督の宮崎駿さんも、彼の作品を見て育ったファンの1人。
しかし、漫画家を志していた彼にとって、手塚さんは大きな壁でもありました。
自分にしみ込んでいる手塚治虫の影響を、どうやってこそぎ落とすか、
ということが大きな重荷になったと言います。
その後、アニメーターとして世界中にその名を知られるようになった
宮崎駿監督。尊敬と反発の入り交じる気持ちで、こう、コメントしています。
「僕は、一度も手塚さんの絵を模写したことがないんです。ファンとして、
手塚さんのマネは、ぜったい、したくなかった。」
ベレー帽とメガネ姿がトレードマークの漫画家、手塚治虫さん。
何本もの締め切りを抱えていた彼は、ときにわがままなことをいい、
編集者を困らせることもあったとか。
真夜中にチョコレートやメロンを買いに行かせたり、
スリッパがないと描けない!と駄々をこねる・・・
そんなエピソードが多々、残っています。
ですが、忙しいときの睡眠時間は、三日間でわずか三時間。
40年間、漫画を書き続けるためには、こんなわがままも仕方が
なかったのかもしれません。手塚治虫さんは、のちにこう、話しています。
「僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、
とにかく続けて欲しい・・・ということです。」
このスピリットが、ときに大きな結果をもたらすことがあります。
2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さん。
読書好きな彼は、「お茶の水博士になりたい」と公言していました。
また同じく、ノーベル賞・受賞者の中村修二さんは、小学校の卒業文集に、
「アトムを育てあげたお茶の水博士のような科学者になる!」と書いたとか。
ただし、彼らの原動力のひとつとなった手塚漫画は、未来に警告することも
忘れてはいませんでした。これは、手塚治虫さんからのメッセージです。
「科学の進歩は大いに喜ばしいことにちがいありません。
しかし一方で、科学の進歩によって多くの生命、
人命が失われたことも忘れるわけにはいかないのです。」
今日取り上げたのは、漫画家、手塚治虫さんでした。