土曜深夜のハードロック/へヴィメタル専門プログラム

Every Sat. 深夜1:00~4:53

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑱

2022/5/28 UP!

2002年、通算10枚目のアルバム「X」をリリースするDEF LEPPARDの取材で、アイルランドはダブリンにあるジョー・エリオットの自宅を訪問した。その自宅に彼のスタジオ『JOE’S GARAGE』がある。スタジオを覗いたら、元THE ALMIGHTYのリッキー・ウォリックがソロ・アルバムのレコーディングをしていてビックリした。翌2003年に発売される初のソロ・アルバム「TATTOO & ALIBIS」を制作していたことになる。プロデューサーは『JOE’S GARAGE』のハウス・エンジニアであるローナン・マクヒュー。DEF LEPPARDのニュー・アルバム「DIAMOND STAR HALOS」を共同プロデュースした人物だ。

ロックダウンでメンバーは自宅に足止めを喰らった。ローナンは『BounceBox』というアプリを使うことを提案し、彼が全メンバーとやり取りしながらレコーディング・セッションを続けていった。そして、この新たなる傑作「DIAMOND STAR HALOS」が生まれた。

2002年、ダブリンの『JOE’S GARAGE』で撮影した写真。
ローナンの後ろ姿のショットも残されている。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑰

2022/2/12 UP!

このTシャツは1981年、IRON MAIDENのヨーロッパ・ツアーに同行していた時に実際に着ていたものだ。
フロントのデザインはシングル”Purgatory”から取られている。これが当時の最新シングル。
この頃のIRON MAIDENのパフォーマンスは切れ味が鋭く、同年の初来日公演でもその凄さが際立っていた。EP「MAIDEN JAPAN」を聴けばよく判る。当然ながらライヴの全曲をマルチテープで録音している。そのマスターテープはマネージメントが所有しているはずだ。
1981年 夏、ポール・ディアノ<vo>は声の調子が悪く、それが不摂生からきていたことで、彼はバンド内部で孤立し始めていた。その後、ポールの不調で何回かライヴをキャンセルしたことが原因になり、スティーヴ・ハリスとロッド・スモールウッドは彼の後任を探し始める。それが、1981年 夏。まさに、私がこのTシャツを着てバンドと一緒にツアーにでていた時期である。
ドイツでのいくつかのコンサートを経てロンドンに戻ったバンドはオフに入る。しかし、スティーブは後任としてSAMSONのブルース・ブルースに白羽の矢を立て、1981年8月29日 土曜日、レディング・フェスティバルの中日に会場に姿を現す。
そして、私とともにプレスエリアの最前に立ち、SAMSONのブルース・ブルースことブルース・ディッキンソンのパフォーマンスを目撃する…..

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑯

2021/12/4 UP!

1997年、MÖTLEY CRÜEはオリジナル・メンバーで再結成され、ニューアルバム「GENERATION SWINE」を発表した。
つまり、ヴィンス・ニールの復活である。
1995年のハロウィンの頃から始まっていたレコーディングの途中で、バンドはヴィンスの再加入を決めたということになる。
1997年、LAのスタジオで全員とインタビューした。4人全員ではなく1人ひとりが会見するという形だった。そのあたりからもこの再結成にビジネス的な色合いを感じさせた。ヴィンスは新車の真っ赤なスポーツカーでスタジオにやってきた。ラスベガスからドライヴしてきたらしい。
1997年8月16、17日の2日間、有明レインボータウンで『ROCK AROUND THE BAY』というフェスティバルが行われ、スティーヴ・ヴァイ、ザック・ワイルドを従えてMÖTLEY CRÜEがヘッドライナーを努めた。
ステージの袖で私はニッキー・シックスのプレイを見ていた。ニッキーがジャンプした瞬間をウイリアム・ヘイムス氏が撮影していた。ニッキーの後方に私が写り込んでいる!
オリジナル編成とはいえ、黄金時代のあの凄まじい熱量は感じられなかった。
しかし、MÖTLEY CRÜEはMÖTLEY CRÜEである。
メンバーの孤高性は特別であり、このフェスティバルでもファンを熱狂させていった。
伝説が再び伝説の輝きを放った来日公演だったといえるだろう!

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑮

2021/8/7 UP!

前日(1971年8月5日)から箱根に入っていた僕は、激しい雨の中、野宿をする場所を探し、山のホテルの入口辺りを歩いていた。しかし、さらに雨が激しくなり、旅館に泊まらざるを得なかった。
翌日、朝早く旅館を出たが、既に入場を待つ長蛇の列が出来ていて、雨上がりの道にロックファンのざわめきが響いていた。
ぬかるんだ山道を歩き、左に曲がると”谷ステージ”と呼ばれるBステージが見えてきた。もの凄い人が詰めかけていた。ステージでは糸居五郎さんがMCを担当していた。


ダブル・ドラム編成の菊地雅章クインテットや、稲垣次郎とソウル・メディアといった、今でいうジャズ・ロック・バンドを紹介した。

そして、あのモップスが、成毛滋&つのだひろが登場した。凄まじいパフォーマンスだった。

しばらくして、映画『いちご白書』の主題歌”サークル・ゲーム”のヒットで知られるバフィー・セントメリーを観るために、”山ステージ”と呼ばれるAステージに向かうと、何と前日の嵐の余韻で、風が強く、ステージの屋根が吹き飛んでいることに気がついた。

そのステージで糸居さんと斉藤安弘さんが観客に向けて話している。たぶん、ニッポン放送の生中継の時間帯だったと思われる。
このあと、大工さんが必死に屋根を修復した。

次第に、箱根の森に夕闇が迫り、午後6時過ぎ、ついにPINK FLOYDの姿がステージに・・・・。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑭

2021/7/17 UP!

素晴らしい一夜だった・・・

ロンドンのトッテナムコート・ロード駅近くの日本食の居酒屋を予約し、NWOBHM時代の仲間を集めて食事をした。
SAMSONのポール・サムソン、 元IRON MAIDENのクライヴ・バー、そして、PRAYING MANTISのトロイ兄弟。
NWOBHMというシーンの裏側を語り尽くすという企画意図だった。クライヴは何と元UFOのギタリスト、アトミック・トミー・Mを連れてきた。一緒に新しいプロジェクトをやりたいから相談に乗ってくれという。
トミーは1980年代からよく知っている。後にTESLAのバックラインを担当するダニー・マックレンドンの弟で、EARTHSHAKERのサンフランシスコ・レコーディングのコーディネーターとして起用したダニーが、トミーをよくスタジオに連れてきた。当時、彼はギター・クリニックを始めようとしていた。その後、才能が認められてUFOのギタリストになったが、残念ながら成功することはできなかった。
クライヴとのプロジェクトも結局、動き出す前に消えてなくなり、トミーはカリフォルニアはストックトンに戻っていった。

この夜、ポールは冗舌だった。考えてみれば、SAMSONはNWOBHMのスタート・ダッシュを演出したバンドだった。そして、気がついているだろうか?クライヴはSAMSONの元メンバーで、その後、MAIDENに加入した。そして、そのクライヴはPRAYING MANTISの一員としても活躍することになる。
私が企画した、このロンドンでの一夜は、結果として、NWOBHMにおける1つの人脈を形成することになった。

若く、野望に満ちていた彼らは、”歴史”を作った。
そして、私はその”歴史”を見てきた。

ポールのラブコールを受けて、SAMSONを日比谷野外音楽堂で開催された、NWOBHM 20周年イベントに呼んだ。彼は日本のファンの前でプレイすることができて、本当に喜んでいた。
そのポールも、クライヴも亡くなっている。

今も、あのロンドンでの一夜を思い出す・・・。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑬

2021/6/12 UP!

杉山ディレクターがビクターのアーカイブから発掘してくれた貴重な写真。
着ているシャツから判断すると、1998年5月17日のロンドン?
となれば、亡きクリス・タンガリーディスのプロデュースでレコーディングしていた「FIREWORKS」のときの写真か?
私は、ハロウィン三代目ディレクターの堀内さんとロンドンに出かけ、様々なバンドの取材を行っていた。その中の1つがANGRA。「FIREWORKS」は60年代のドラムキット、60年代のベースアンプ、50年代のマイクロフォンを使用し、アナログのやわらかい音を取り込もうとしたアルバムである。
スタジオにはアンドレ・マトスしかいなかった。そのアンドレとインタビューした。記憶によれば、バンド内部に問題が発生していた。アンドレはANGRAからの脱退を決めていた。そういったネガティヴな空気が既に存在していた。しかし、アンドレは「FIREWORKS」のヘヴィな世界観に対する挑戦者としての心意気を語ってくれた。「FIREWORKS」にはアンドレの心境が映し出されている。
1997年12月31日、コパカパーナ・ビーチにいたアンドレは1時間近く打ち上がる花火を見ていた。そして、こう思う。
『とても美しく、力強く、エネルギッシュな花火だ。
 だが、それは長く続かない。手で掴むこともできない。
 みんなが精神的に一つになっている瞬間なんだ』と。

アンドレはツアー終了後に脱退する。

記念写真を撮影する時、彼は「メガネを交換して撮ろうよ!」と言った。その時の1枚。

2007年の「LOUD PARK」、バックステージに行くと、丁度アンドレがステージから降りてきた!
「マイ・フレンド!!」と言って、僕に抱きついてきた。

今年9月にアンドレのドキュメンタリー映画が公開されるそうです。

2019年6月8日、彼は47歳の若さで亡くなっている。
R.I.P.

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑫

2021/3/20 UP!

2005年 夏、ジョン・ボン・ジョヴィはインタビュー場所として、自宅近くにある古いホテルを指定してきた。
私と担当の柴田ディレクター、カメラマンのウィリアム・ヘイムス氏は、ニューヨークから車を飛ばし、数時間前にこのホテルに入った。そして、インタビューをテレビ撮影する場所や、フォトセッションにふさわしい背景を決め、ジョンの到着を待った。
部屋の窓から外を眺めているとジョンが運転する車が、ホテルの正面に着いたところだった。急いでロビーに降りていくと「マサ、よく来てくれたね!」と、ハグしてくれた。あのビッグ・スマイルと共に。

アルバム「HAVE A NICE DAY」は、自分達の立場をはっきりさせる勇気を綴ったアルバムだった。9.11のショックはまだ癒えていない。国内は反ブッシュと、ブッシュ支持者でぶつかり合い、激しく揺れていた。ジョンはこのアルバムで「意思の相違、政治的思想性の違いなどを飲み込み、受け入れることが大切だ!」と主張した。あれから、約16年の時が流れた。しかし、アメリカ国内が二分化された形は今も変わらない。いや、もっとひどくなっているかもしれない。

このホテルのロビーに置いてあったニュージャージーのマップを10部ほどいただいて、ジョンにサインをしてもらった。その中の1つには何と自宅のある場所に大きな丸印がつけられていた…。番組プレゼントでそれを手にした幸運なリスナーがいる。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑪

2021/2/27 UP!

わーっ!私が着ているのは、ラムの毛皮のハーフコートだ。
この頃、流行っていたんだよね。
カナダのケベックにQUEENSRYCHEの取材に行ったとき、楽屋に置いてあったこの毛皮を見つけたTWISTED SISTERのディー・スナイダーが着てはしゃいでいた。
買ったばかりなのに!(怒!!)

これは、1984年3月の日本武道館のバックステージで撮影されたもの。
「BENT OUT OF SHAPE」を発表したRAINBOWが6回目の日本公演を行った。しかし、その裏で第2期 DEEP PURPLEの再結成の話が進行していたことは誰も知らなかった。私がロンドンでその噂を聞きつけて「音楽専科」誌でスクープ記事を書いたのは、その数カ月後か?
リッチー・ブラックモアは日本武道館のステージで派手にギターをクラッシュ。観客はヒートアップした。終演後、その破壊されたギターをもらった。今、持っていればお宝だが、確か「音楽専科」誌の読者プレゼントとして提供しているはず!
この時の日本武道館公演は2日間行われているが、ライブが映像化されたことはよく知られている。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑩

2021/2/20 UP!

この写真は1年ほど前に、YG編集部の平井さんがシンコー・ミュージックで発掘したもの。
ゲイリー・ムーア、私、そして、シンコー・ミュージックのコレスポンデントだったキム山門さん。
1982年7月か8月、ゲイリーのマネージメントで会見した。
ヴァージン・レコードからの第一弾アルバム「CORRIDORS OF POWER(大いなる野望)」発売前で、ゲイリーはアルバム・ジャケットのラフデザインを見ていた。
実はこれがゲイリーとの初インタビュー!
「気難しい人という噂は本当ですか?」とか、「ドラッグをやっていたって本当ですか?」とか、好き放題 質問していたら「君は最高だ!」と大笑い。それ以来、本当に仲良くなった。
1989年「AFTER THE WAR」のツアーで来日した際、私とのインタビューで「ハード・ロックはもういい。自分のルーツであるブルーズに戻る!」と断言。
「それなら、そのレコーディングに立ち会わせてほしい!」と言ったところ、「いいよ!」と。
1990年 春、ロンドンでレコーディング中のゲイリーをスタジオに訪ねた。
そして、歴史的名盤となる「STILL GOT THE BLUES」をワールドプレミアで試聴させてくれたばかりでなく、まだ、機材が残されていたスタジオの中で90分も独占インタビューに応じてくれた。

彼が亡くなって10年。様々な思い出が胸を過ぎる!

後に、一連のブルーズ・アルバムを成功させた彼は、「ハード・ロックをやっていた1980年代はあまり好きではなかったが、良いバラードは作ってきたかもしれない!」と、私に微笑んだ。

GO TO ROCK AND ROLL〜ロックの現場から〜その⑨

2021/2/6 UP!

新宿ツバキハウスが別の会社に買収されて、『HMサウンドハウス』は常連のみなさんと共に、流浪の如く東京を漂流しました。
そして、新宿は歌舞伎町の東亜ビルにあったGBラビッツを新たな根城にすることになります。記念すべき初日は、1,300人以上のお客さんが集結し、入りきれないお客さんの列が新宿コマ劇場まで延びてしまい、交番のおまわりさんが出動する騒ぎになりました。我々もお客さんも熱量が凄い時代でした。
毎週の様に海外からアーティストが遊びにきて、アコースティック・ライヴやサイン会をやり、今思えばとんでもない空間だったと思います。


この写真は1994年11月、来日中のSAVATAGEのメンバーがVIPでくつろいでいるところに、何と新宿レコードのマダム藤原さんが表敬訪問。私も含めての記念撮影となりました。撮影したのは、新宿レコードのご主人、藤原間三郎さん。藤原さんはカメラが大好きで、お店を訪れたミュージシャン達の写真が店内にいっぱい貼られていました。
SAVATAGEのプロデューサーで、後にトランス・シベリアン・オーケストラという一大ツアーを成功させたポール・オニールは、私の友人でした。「SUPER ROCK’84」が開催された時、彼はアメリカ側のプロデューサーとして来日。翌年の「SUPER ROCK’85」も彼が手掛けました。
その彼は、ある日、SAVATAGEの名作「DEAD WINTER DEAD」のアートワークの原画を私に届けてくれました。メモラビリア展で公開した、私の宝物です。
1993年10月、ジョン・オリヴァの弟、クリストファーが交通事故で亡くなり、バンドは危機的な状態に陥りましたが、この日本公演ではTESTAMENTのギタリスト、アレックス・スコルニックが参加し、バンドは新しい編成になって、素晴らしいパフォーマンスを披露しました。その時の模様は、アルバム「JAPAN LIVE’94」で聴くことができます。

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