2024/9/1 UP!
今週のベイエフエム / ザ・フリントストーンのゲストは、バックパッカーそして紀行家の「シェルパ斉藤」さんです。
斉藤さんは1961年、長野県生まれ。本名は「斉藤政喜」。学生時代に中国の大河、揚子江をゴムボートで下ったことがきっかけで、フリーランスの物書きになり、1990年に作家デビュー。
現在もアウトドア雑誌「BE-PAL」の人気ライターとして「シェルパ斉藤の旅の自由型」という連載を30数年続けています。また、1995年に八ヶ岳山麓に移住、自分で建てたログハウスで自然暮らしを送っていらっしゃいます。
今回は、斉藤さんらしい旅のお話として、まずは、新しくなったお札をモチーフにしたユニークな旅、そして新しい本『シェルパ斉藤の山小屋24時間滞在記』をもとに、温泉や食事が抜群の、個性的な山小屋のお話などうかがいます。
☆写真:シェルパ斉藤、イラスト:神田めぐみ、協力:山と渓谷社
1万円札の旅!?
※今回、斉藤さんにお話をうかがったのは先月で、実は前日まで旅をされていて、ご自宅に戻る前だったんです。そんな斉藤さんが、東京に立ち寄った際に時間をとっていただき、まずは最新のユニークな旅のお話をうかがいました。どんな旅だったのか、今回はほんのさわりだけ、ご紹介します。
「行っていたのは九州なんですよね、大分県の中津ってところにいて・・・。で、きのういたのが埼玉県の深谷。まだ家に帰ってないから、旅の途中なんですよ」
●きょうも大きな荷物を持っていますよね。
「ええ、それで中津、深谷でピーンときた人は、相当アンテナを張り巡らせているかただと思うんですけど、最近の日本での大きな出来事でいうと、オリンピックは日本の話じゃないので、その前に1万円札が変わったんですよね」
●新紙幣に!
「はい、それで僕、たまたま3月に九州を旅して、その時は野田知佑さんが亡くなって、追悼する自転車ツーリングに出かけていたんですよ。大阪から自転車で走って、大分県の国東半島に入って、そこからずっと走ったら中津を通ったんですね。で、中津を通ったら、“1万円札、さようなら”みたいな感じで、福沢諭吉の生誕地なんですよ。駅にいろいろとちょっとしたメモリーっぽいものがあったりして・・・。
それを見たあとに、5月かな、今度は旧中山道を旅していて、下諏訪のほうから江戸日本橋を目指して、いろいろ宿場町に寄って深谷に着いたら、新1万円札で、渋沢栄一でガッと盛り上がっているから、それでピーンときて、このふたつを結びつけてみたら面白いなと。だから福澤諭吉の生誕地から渋沢栄一の生誕地まで旅をしようと。で、1万円札の旅なので1万円だけでやってみようと思ったんですよ」
●1万円で、ですか!?
「うん、だから予算1万円の旅。普通はヒッチハイクとか使わない限りできないんですよ、物理的に」
●大分から埼玉ですよね。
「そうなんですよ。いろいろ交通機関を調べても(1万円では)できないんだけど、今この時期、7月から9月10日まで『青春18きっぷ』っていうのが使えるんですよね。あれは12,050円で5枚つづりで、1日あたり乗り放題、だから1枚あたり2,500円くらいになるんですよね。
で、これを使えば、2日で行けたとしたら5,000円分くらいのはずだから、残り5,000円だと多分食事を1日500円を3回としても1,500円、2日間で3,000円で、2,000円くらいだったらネットカフェか、あとベンチに泊まればなんとかなるんじゃないかっていうことで始めたのが・・・ってか、きのう終わったんですけどね」
(編集部注:1万円札リレー旅の結末、気になりますよね〜。果たして、費用が1万円以内で収まったのか・・・「青春18きっぷ」だけで1万円を越えちゃってますからね〜。どうしたんでしょうね〜。
ほかにも、列車の移動はうまくいったのか、福澤諭吉、渋沢栄一、それぞれの生誕地で何を感じたのかなど、旅の顛末は、9月9日発売の「BE-PAL」10月号の連載記事「シェルパ斉藤の 旅の自由型」で明らかになります。ぜひチェックしてください)
山小屋の間取りをイラストに
※ではここからは、斉藤さんの新しい本『シェルパ斉藤の山小屋24時間滞在記』をもとにお話をうかがっていきます。この本は山岳雑誌「PEAKS」に連載していた記事を、大幅に加筆修正してまとめた本ということで、まずは、連載が始まったいきさつについてお話しいただきました。
「僕は実は山小屋、あんまり詳しくなかったんですよ。いつもテントを張ってどうこうしているっていうのがあって・・・。それと、なんか山小屋は泊まりにくかったんですよね、なんとなく気分的に。
まずひとつはお金がかかるっていうのがあるし、僕は63歳になったんですけど、若い頃って山小屋はなんか嫌だったんですよ、怖くて親父さんが・・・。すごく怒られるみたいな、”山はそんなもんじゃねえ!”みたいなイメージがあって、頑固親父のイメージがあったんですよね。
それもあって、なかなか山小屋を実は避けていて、これが50歳過ぎてから、とりあえず山小屋に対する抵抗感がなくなってきてというか、やっぱり代も様変わりしていますし、それもあるけど・・・。
僕が住んでいるのは八ヶ岳のふもとなんですよ。ふもとに住んでいるのに地元の山小屋は実は泊まったことがあんまりないなって気づいて、それで『PEAKS』って山雑誌が、なんか連載してくれないかって頼んできて、提案したのが山小屋をやりたい、泊まったことないから。
それでまず八ヶ岳の山小屋を片っ端から泊まってみたいと・・・その時に僕がひとつ提案したのが、この本の売りにもなっている間取りですよね。山小屋ってその地形に合わせて作っているし、自然環境に合わせて作っているので、例えば平地の建売住宅のような同じ建物って絶対作れないんですよ、限られた条件の中で工夫して作っているもんですから。で、さらに建て増し建て増しとかってやっていくと、すごく複雑になっているんですよね。
で、一軒として同じ建物がないこの山小屋の間取りとかをイラストで描いたら面白いんじゃないですかっていう提案をして・・・。で、普通、山小屋ってだいたいご主人とかそこの歴史とかをフィーチャーしていくんだけど、やっぱり建物だけでも面白いから、僕は当然、人物の話を書いたりいろいろしていくんだけど、建物が一発でわかるイラストを載っけたら面白いんじゃないかと・・・。僕が自分で家を作っているってこともあって、ちょっとした建築のことなら少しわかるので・・・。で、編集長に提案して、間取りを描けるイラストレーターを誰か紹介してって頼んで、紹介してもらったのが神田めぐみさん。
ただ、彼女は当時25〜26歳だったかな。まだ駆け出しのイラストレーターだったんですけど、(神田さんは)山に登れるっていうのは聞いていたんですよ。で、その時、僕が“間取りを描けますか?”って聞いたら、”はい、描けます!”って力強く言ってくれたんですけど、あとで聞いたらほとんど描いたことがなかった(笑)」
●そうだったんですね(笑)
「駆け出しだったからやっぱり連載を持てるっていうのに喜んで、それが始まりだったけど、本当に初っ端からかな、すごく上手く描いてくれて、それからコンビでずっと一緒に(山小屋取材に)行くようになりましたね」
(編集部注:イラストレーター神田めぐみさんと山小屋の取材を行なうようになった斉藤さん、年齢的には二回りも違うということで、最初はいろいろ気を遣っていたようですが、神田さんが斉藤さんの話にのってくれるし、同じ視点で見ていることに気がつき、手応えを感じたそうです。また、神田さん自身も山旅を楽しんでいたそうですよ)
「滞在記」がポイント
※取材する山小屋は、どんな基準で選んだんですか?
「この本は全部で4章に別れているんですけど、最初は八ヶ岳編、次は奥秩父編、これは僕の家から近いからっていうか、僕の地元だからっていうことなんですけど(笑)、最初はエリアごとに区切って、奥秩父が終わった段階で全国に足を伸ばそうと。ですから八ヶ岳編、奥秩父編の時には一応全部(山小屋を)選ぶことなしに片っ端から行くっていうのがあったんですね。
で、全国編になってからどこでも行きたいと思ったところに行こうと。その時の基準は・・・基準というか、できない山小屋があるんですよ。それはでかい山小屋、大きな山小屋。これはやっぱりイラストを描くっていう売りなので、大きすぎると描ききれない、ページに収まりきれない。それと僕がいろんな人と話をするのにスタッフが多いとやっぱり無理なんですよね。
僕は普通の宿泊記ではなくて(タイトルを)滞在記にしているのは、そのスタッフのかたと仲よくなる。いろいろと話を聞いたりとか、それにはやっぱり顔と名前を覚えられなければいけないっていうのが僕の中であって、10人くらいまでならまだいいんですけど、大きな山小屋って30人40人、全員と話ができないって状況になると、ちょっとそれは本当にただ宿の紹介だけになっちゃうから・・・。
だからこの滞在記っていうタイトルも、24時間滞在記ってなっているんですけど、要は宿泊じゃなくて滞在したからこそ仲よくなれたりとか、滞在しているからこそ、普段だと聞けないような話も聞けたりとか、ということができたっていうのもあるので、そういう意味では話ができる山小屋というのを前もって、僕も神田さんも山業界にいろいろと知り合いがいるから、あそこはいいよとかっていう情報が回ってくるから、それで選んでましたね」
飲ませ上手な花ちゃんと、しのぶさん
※この本には、唯一無二の個性的な山小屋が145軒、立体的なイラストとともに紹介されているんですが、山小屋のご主人や小屋番、そしてスタッフがこれまた個性的なんです。その中から、南アルプスの「光岳(てかりだけ)小屋」の管理人になった花ちゃんのお話をしていただきました。
「そもそも知り合ったのは、この山小屋の取材で知り合ったんですけど、その時は南アルプスの『鳳凰(ほうおう)小屋』ってところにいたんですよ。そこで知り合って、当時はまだ(彼女は)26歳くらいだったのかな。
で、知り合ってからいろいろと、うちにも遊びに来るようになって・・・そう! 彼女と僕、結構、山に行ったり、いろいろしているんですよね。一緒に東北の山へ、たまたま僕が避難小屋で薪を使ったから、“薪の恩返しに行こう! 付き合う?”って言ったら、わざわざ薪を運んでくれて、東北の山に行ったりとか・・・」
●花ちゃんは、山小屋を転々として管理人さんになったんですよね?
「そうなんですよ。最初は『鳳凰小屋』にいて、それから順番もバラバラなんだけれども、『広河原(ひろがわら)山荘』とか『こもれび山荘』とか、と言っても多分みんなピンと来ないと思いますけれども、『金峰山(きんぷさん)小屋」とか、いろんな小屋を転々と渡り歩いて・・・。
やっぱり山小屋をやっているかたって、自分の山小屋をやってみたいっていう憧れのようなものがあって、要するに雇われているんだけど、管理人としてね。でもやっぱり管理人さんって自分のカラーを出せるわけです、自分の山小屋っていうのは・・・。
その募集があったのが静岡県の『光岳』で、みんな『ひかりだけ』って呼んだりとかするんだけど、すごくマイナーな山なんですよ。一応、深田久弥の『日本百名山』には入っているんですが、みんなここには行きたくないっていうくらいに、“絶望のてかり”って言われていて、それは字で書くと“絶望の光”っていうふうになるんだけど・・・。
普通、山って登ると“やった~、こんな景色が開けていて”っていうのがあるんだけれど、光岳は登っても大して絶景でもないし(笑)、だから“絶望のてかり”って呼ばれているんですけどね。
行くのは遠いんですよ。そこで(花ちゃんが)管理人をやるっていうのがちょうどコロナ禍の時だったのかな、募集があって・・・。だけどコロナ禍になったもんだから、山小屋を開けなくて、準備をコツコツと進めて、ようやく2年前に自分の山小屋として開いたんですよ」
●女性の管理人さんって珍しいですよね?
「最近ちょっと増えているんですよ。光岳の花ちゃんもそうですし、それから南アルプスに『馬の背ヒュッテ』ってあって、そこをやっている斎藤しのぶさんってかたも管理人としてやっているんですね。で、しのぶさんも花ちゃんもどっちも酒を飲ますのがやたらうまい!」
●そうなんですね(笑)
「花ちゃんも自分でいろいろ酒を置いてあるし、特にしのぶさんは本当にお酒が大好き! 自分も好きだし、飲ませ上手なんで、いろんな銘柄を置いてあって、好きに飲めるっていうようなバータイムが始まるんですよ。
特にしのぶさんのところは日本酒なんですけど、飲ませるのがうまいんですよ! 僕は“スナックしのぶ”って言っているんですけど、山の中で気が付けばガンガン飲ませる! でも心地よい飲み方なので・・・ですから、女性ならではの細かいもてなしがあったり。
花ちゃんも(山小屋に)着いたらちゃんと、静岡だから静岡茶のサービスがちょっとあったりとか、そういうきめ細かいサービスがあるところって、ありますよね。なんかそういう意味では(山小屋が)昔のイメージとは全然変わってきて、いいですね」
温泉、混浴、星明かり
※続いては、温泉のある山小屋の、ドキッとして神秘的なエピソードです。
●北アルプスの「白馬鑓(はくばやり)温泉」は男女混浴なんですね?
「だいたい混浴が多いですよね。ほとんど女性は水着を着ているし、男はちょっとね、別にっていう感じで、裸で入ったりしていて、別に決まりじゃないんですよ。女性が水着を着なきゃいけないとかってわけじゃなくて、でも着なきゃ入れないよねっていう・・・。
ただ白馬鑓温泉に行った時は、営業がもうすぐ終わりだったんですよね。白馬鑓温泉って、ほかにも『岳沢(だけさわ)小屋』とか『阿曽原(あそはら)温泉』がそうなんですけど、山小屋ってすごく雪崩が多いところもあるんです。そういうところだと建物も毎回シーズンが終わると撤収するんですよ。撤収してまたシーズンが始まると組み立てる、ですからテントみたいなもんで、それをずっと繰り返すんですね。
それで白馬鑓温泉もそういうふうにシーズン終了に近かったので、全部撤収してっていうので、スタッフが来ていたんですよね。夜、飲んでいるうちにスタッフたちと“お風呂に入ろうよ!”って話になって、それまでは女性もみんな水着とかで入っていたのに、その時はみんなして、すっぽんぽんで!」
●あらっ!!
「僕は男だから当然だけど、女性もすごく気持ち良さそうに(お風呂に)入るんですよね。その時はたまたま、本当に新月で、月明かりもなくて星明かりしかない、だから電気さえつけなければ、本当に真っ暗けなんですよ」
●なるほど~。
「本当にすっ裸で解放感、しかも空を見上げると満天の星だし、その満天の星がたまに湯船に映ったりもして、宇宙を素っ裸でみんなして、仲間になりながらバーっと見上げているっていう感覚は・・・あの感覚はすごくよかったですね」
(編集部注:ほかに苗場にある「赤湯(あかゆ)温泉山口館」は歴史があり、温泉としても旅館としてもよくできているとおっしゃっていました。気なるかたはぜひ、本を見てくださいね)
本格的なフランス料理!? 一流の料亭の味!?
※霧ヶ峰の「鷲ヶ峰(わしがみね)ひゅって」はフランス料理が食べられることで有名なんですよね?
「あそこはちょっと特別ですね。だから山小屋っていう概念じゃなくて、でもペンションでもないし、民宿でもないし、ホテルでもないしっていう独特な世界観がありますね。
ご主人が東京の超一流のシェフから直伝でいろいろ教えてもらって、3年ぐらい修行したとか言ったかな・・・その料理を提供するんですけど、雰囲気もいいから美味しいんですよ。オードブルから始まって本格的なフランス料理が次から次と出てくる!」
●山小屋でフランス料理が食べられちゃうって、すごいですよね~!
「うん、あそこは料理だけでも本当に行く価値があるかなって思いますね。
あとは、おすすめで言うと 『山楽荘(さんらくそう)』って御岳山にあるんですけど、ここはちょっとびっくりするくらいの料理、料亭のように次から次へといろんなものが溢れんばかりに出てきて、しかも一流の料理人のかたが作っているんですけど、そこ自体がもう本当に神の領域なので・・・。
次から次とちっちゃい料理がたくさん出てくる、だから料亭気分ですよね。それを山小屋と言っていいのかっていう感じにはなってしまいますが、あそこもよかったですね~、そういう意味では」
●旅の疲れを取るための山小屋っていうよりは、わざわざ行きたくなる山小屋がいっぱいありますね。
「そうですよね。山小屋は料理もそうですし、それからやっぱりあと場所ですよね。景色はやっぱり行かなければ、見えないものはかなりあるので・・・。
なんでこんなに山小屋がいいのかなって考える時に、日帰りだと多分見えない景色があって、それは山で一日が暮れる、暗くなるまでそこにいられるっていうのは、しかもご飯がちゃんと出てくる、そのあとはそこに暮らしてる仲間たちとお話ができる、夜になると星が出てきて夜明けを迎えられるっていうのは、やっぱりこれ、山小屋の魅力だなっていうのを、山小屋を全然知らなかった人間が言うのはなんですが、それは感じますよね」
(編集部注:ほかにお料理が素晴らしい山小屋として三重の御在所岳にある「日向小屋(ひなたごや)」をあげてくださいました。海の幸、山の幸がテーブルに載らないほど出てきて、どれも美味しい、それでいて、宿泊費が一泊2食付きでなんと4,000円! ご主人の人柄もよく、斉藤さんいわく、山小屋の概念を超越し、知り合いのうちに遊びに来たような感覚になったそうですよ)
映画で言うなら予告編!?
※改めてなんですが、山小屋の魅力とはどんなところでしょう?
「山小屋って、山頂に登るために泊まる施設なんですよね。それから帰りが遅くなった場合とか、山に登るための補助施設みたいな感じなんですけど、僕はそこを旅の宿として、究極の旅の宿というふうに僕は思っているんですよ。旅ってやっぱり非日常を味わうために行くっていう意味では、あんな非日常の宿はないなと・・・。
まず行くのも、大体のところは車で行けないわけだし、歩いて汗をかかないといけないし、そこには電気がなかったり水もなかったり、限られた中で一生懸命みんな工夫しているんですよね。だから人間の生きる知恵も見える、その中で一生懸命もてなしてくれるっていう意味では、非日常を味わえる究極の宿かな、それが山小屋じゃないかなって僕は思っています」
●最後にこの新しい本『シェルパ斉藤の山小屋24時間滞在記』をどんなふうに活用してくれたら、著者としては嬉しいですか?
「正直ね、これ(「PEAKS」に)連載の時は4ページで、結構大きく割いていたんですよ。で、いろんな写真も載っけていたりとか、僕も文章をしっかり載っけていたんですけど、この本は各山小屋を2ページずつで145軒だから、300ページ以上の本になって、文章をかなり削っちゃったんですよね。
ですから、ワンショート・ストーリー、この山小屋はこういう話だってことで、ショート・ストーリーをずっと綴ったつもりなんですね。神田さんのイラストはそのまま載っけているんだけど、僕の文章に限って言うならば、大幅にカットせざるを得なかった。だから最初は、文章を書く人間としてはそれはすごく辛かったし、いいのかなこれでと思ったんだけど、ある時書いているうちに、これは映画で言うなら、予告編の集まりなんだなっていうふうに思って・・・。
やっぱり面白そうな映画って予告編を見たら本編を見たい!と思って、映画館に行くように、だからこの本を読んで、この山はこういうふうになっていて、こんな感じなのかって思ったら、この山小屋に行ってもらいたいな。だから山小屋へ行くための導きになったらいいな、きっかけになってもらいたいなっていう、そういう意味ではパラパラ見ると大体わかるし・・・。
それから詳しいデータは一切載っけていません! っていうのは、ホームページとか見れば大体わかるから。だから誰もがわかることではなくて、僕が感じたこと、滞在してわかったことを書いているんですね。だけど多分行けば、全然違う体験になるだろうから、それを味わうためにあくまでもインビテーションっていうか、きっかけとしてこれを使ってもらえればなと思います」
(編集部注:今回の本は“24時間滞在記”ということで長く滞在することで、山小屋のスタッフと過ごす時間も増え、お互いに心を開いて話すことができたそうです。なので、山小屋をあとにするとき、スタッフがいつまでも手を振って見送ってくれたそうです。斉藤さんはとてもじーんとしたとおっしゃっていましたよ)
☆この他のシェルパ斉藤さんのトークもご覧ください。
INFORMATION
斉藤さんの新しい本をぜひチェックしてください。全国の山小屋から、実際に訪れた145軒を掲載。オールカラーで、ひとつの山小屋を見開き2ページで紹介。斉藤さんの、エピソードを交えた簡潔な文章を読み、神田めぐみさんの、間取りを立体的に描いたイラストを見る、それだけで山小屋に行きたくなると思いますよ。
山と渓谷社から絶賛発売中です。詳しくは、出版社のオフィシャルサイトをご覧ください。
◎山と渓谷社:https://www.yamakei.co.jp/products/2824330810.html
本の発売を記念して、イラストの原画展がモンベルストア渋谷店5階のサロンで開催されます。期間は9月13日から20日まで。初日の13日には、夜7時から斉藤さんのトークショー&サイン会が予定されています。詳しくはモンベルのサイトをご覧ください。
◎モンベル:https://www.montbell.jp
斉藤さんのオフィシャルサイトも見てくださいね。
2023/3/12 UP!
今週のベイエフエム / ザ・フリントストーンのゲストは、バックパッカーそして紀行家の「シェルパ斉藤」さんです。
斉藤さんは、アウトドア雑誌「BE-PAL」でお馴染みの人気ライターであり、人力移動の旅の本を数多く出版されている作家でもいらっしゃいます。
この番組とは30年来のお付き合いで、事あるごとにご出演いただいています。そして、きょうの放送が1600回目ということで、何かのご縁を感じます。
そんな斉藤さんが先頃『あのとき僕は〜シェルパ斉藤の青春記』という本を出されました。今回は「旅と音楽、そして原点」というテーマのもと、斉藤さんの甘酸っぱくも切ない青春時代の思い出に迫ります。
☆写真協力:シェルパ斉藤
原点は山村の通学路
●今週のゲストはバックパッカー、そして紀行家のシェルパ斉藤さんです。以前はオンラインでのご出演でしたので、やっとリアルにお会いできました。よろしくお願いします!
「よろしくお願いします! こんな顔をしています。やっぱり嬉しいですね、会えると・・・」
●そうですね〜、嬉しいです! 今回は先頃出された本『あのとき僕は〜シェルパ斉藤の青春記』をもとにいろいろお話をおうかがいしていきますが、番組のほうで勝手にテーマを決めさせていただきました。
そのテーマとは「旅と音楽、そして原点」ということで、旅は広く解釈して人生という意味もありますし、斉藤さんの場合は節目節目で、音楽もすごく重要な要素になっていますよね。
「なんか結果的ね。なんとなく音楽があると、あの時はああだったなっていうのをたまに思い出しますね。たまたまラジオで(懐かしい曲が)かかると、ああっそうだったっていう・・・そういうのを(本の)ところどころに書いていますからね」
●そうですね。
そして原点は、そのものずばり斉藤さんを物語るいろいろな原点に迫っていきたいと思っております。まずは斉藤さんの原点、生まれ故郷についてなんですけれども、故郷は長野県松本市ですよね?
「松本と言っても、生まれたところはすごく山奥なんですよ。名前はあえてこの本にも書いていないんですけど、今は合併して松本市になっているんです。
すごく山奥の村で、中学になる時に松本市内に引っ越すんですが、その時やっぱり初めは、ああ清々したみたいな感じにちょっと思ったりとかして(笑)・・・松本で暮らしているとだんだん・・・今はすごくいい町だなと当然思っていますしね。それは自分が山に登ったり、旅する中でよく出来た文化もあるし、いい町だなと思うんですけど、盆地なんですよ、松本って。
要するに周りを全部、北アルプスとかに囲まれていて、それもなんかだんだん、ここで終わりたくないっていう・・・こんなとこって言ったらひどいけど(笑)、当時はまだ高校生で、ここで終わったら本当に井の中の蛙みたいな感じで、やっぱりちゃんと広い大海を知らなければと・・・ですから、東京志向がすごく強かったですね」
●そうだったんですね〜。
「でも思えば、そこから東京に出てきて、日本は狭いなって思って、結局そこからまた世界に飛び出しちゃったわけだから、そう考えると原点って意味では、山村の狭いところに生まれ育ったから、今こうやって、いろんなところに行くようになったっていうのはあるかもしれないですね」
●本にも、山村の通学路が僕の原点とも書かれていましたけれども・・・。
「歩く旅はそうかもしれないですね」
●歩くノウハウを自然に得ていたという記述もありましたね。
「まあでも子供って誰でも歩けばそうなるでしょっていう・・・(笑)。今バックパッカーとしていろんな所を旅して、たまにトークショーとか講座とかやってほしいと言われて、山の歩き方を教えてほしいって真面目な方から聞かれても、普通のちゃんと歩ける方だったら、山も歩けるでしょ、としか言いようがないですよね。
要するにそれは子供の頃に通っていた通学路が、今のように集団登校とかも何もなくて、安全な道は一応あったんですけど、子供たちは出来るだけ近道にしたいっていうことで、本当に山道があったんです。そこを一気に行けば、早く学校に着くし、やっぱり楽しかったんですよね。みんなバラバラ歩いて・・・そうしたら歩き方なんて絶対身につくし・・・で、冬になると当然凍っちゃうし 、雪になっちゃうし、そういうところの歩き方が本当に原点になるのかな・・・そんなのが(笑)」
愛聴盤は、吉田拓郎 『元気です。』
●山村で暮らしていた小学生時代に、初めて買ったレコードが吉田拓郎の『元気です。』と本に書いてありましたね。
「ちょうど拓郎さんが出始めた頃で、デビューしてだんだん『結婚しようよ』って曲が大ヒットして、やっぱり憧れはありますね、多分」
●でも小学生で、吉田拓郎のレコードって結構ませていませんか? 大人びてるイメージがあります。
「それはね、うちの兄貴のせいです! ふたつ上の兄貴がいるんですけど、兄貴がやっぱり拓郎とか好きで、当時ね。田舎の山の中ですけど、東京のラジオ局も夜になると(電波が)入るんですよ。で、当時、吉田拓郎はずっと深夜のラジオ番組をやっていて、それをうちの兄貴は夢中になって聴いていたんですよ。
それでお小遣いとかお年玉とか貯まってきて、自分もレコードが欲しいなって思った時に、兄貴が”松本に行くから、政喜(まさき:斉藤さんの本名)、お前にもレコードを買ってやるぞ。俺が買ってきてあげるから、拓郎にしろ”って言われて(笑)。向こうがこれにしろ、みたいな感じではありましたけど、ただ憧れありましたよね、拓郎かっこいいなって・・・。
かっこいいなっていうのは、テレビに出ないっていうのがね。テレビに出なくてラジオだけでっていうのがかっこいいって思ったんですよね。それで最初に買ったのが、というか買ってきてもらったんですけどね・・・一応、僕のお小遣いで買ったのが小学5年生の時の、吉田拓郎の『元気です。』っていうアルバムです」
●特に好きな曲とか、よく聴いていた曲はありますか?
「好きもあるんですけど、よく聴いていたのは絶対に1曲目ですね。CDじゃないからレコードですからね。普通、アルバムのレコードをかけると言ったら、まず1曲目の同じところに針を落とす・・・(笑)、だからアルバム1曲目がいちばん聴いていたはずですね。
要するに途中に針を落とすってなかなか難しいから、だから最初にかけるのはもう1曲目の『春だったね』って曲がいちばん印象に残っていますね。中学くらいまでいちばん聴いた曲は何かって言われたら、『春だったね』だと思いますね」
初めての野宿は、彼女とのデートだった!?
●原点で言うと、キャンプの原点は高校3年生の時の野宿だったことが新しい本『あのとき僕は〜シェルパ斉藤の青春記』で判明しました。地元の川のほとりで野宿されたようですけれども、これはどうして、そうなったのか説明していただけますか?
「なんか取調室みたいな感じになっていますけど・・・(笑)、好きな子がいたんですよ」
●はい、ナツコさんっていう方ですよね。
「仮にナツコですよ(笑)、ナツコって本には出てきますけど。好きな子がいて、高3になった時に初めて告白したんですね。その子は、実は中学から一緒だったんですよ。なので今さらそんなこと、みたいな雰囲気になったんですけど、友達からみたいな感じで、はっきりしないまま、会って放課後、一緒に帰るようになったりしたんですね。
当時の共通一次試験、今はセンター試験と名前は変わりましたけど、僕は共通一次の1期生なんですよ。僕が高3の時にその制度になって、それまでずーっと高校の文化祭は秋に開かれていたのが、夏休みってすごく重要だから、進学のために受験勉強をしなきゃいけないから、(文化祭の開催が)7月に前倒ししたんです。7月に文化祭をやると・・・。
で、僕は生徒会に絡んでいて、文化祭を盛り上げるためにいろいろやろうってなって、文化祭のテーマが「破天荒」だったんです。今までやったことがないことをやるとかっていうので、一生懸命、燃えていたもんですから、自分も何かやろうと考えて思いついたのが、河原で野宿する、で、朝を迎える・・・。
で、なぜその河原を選んだかって言うと、仮のナツコっていう女性の家の近くに川が流れていたんですよ。で、夜にデートしたいと思って、河原で(笑)、それで当時は携帯電話も何もないから、文化祭中に彼女に今夜、女鳥羽川(めとばがわ)、松本に行くといちばんの繁華街を流れている川です。
松本城とか近くにあったりする、本当に繁華街を流れている、ちっちゃな川で、そこにベンチがあったりするんです。僕はそのベンチに朝までいるから、夜会おうって約束をして、それで一応野宿するとか言いつつ、ずっとベンチでいたんですよね」
●ずっとナツコさんを待っていたわけですね。
「携帯電話とかないから本人からも連絡が来なくて・・・で、(夜中の)12時をまわっても来なかったから・・・」
●ずっとベンチで待っていたんですね。
「まあ寝床ですからね(笑)。それで全然来ないからダメかなと思ったら、12時もまわって1時に近かったかな・・・息を切らせて彼女が来て・・・言うには両親が寝静まってからバレないようにこっそり(家を)出てきて・・・息切らしているのもやっぱり怖かったからって一生懸命駆けてくるんですよ・・・なんか自分で喋っていて小っ恥ずかしいね(笑)」
●いや〜キュンとしますね!
「で、ずっとふたりでベンチに座って流れる川を眺めつつ・・・本当にバンカラですから、松田聖子の『赤いスイートピー』じゃないけど、半年経っても手も握らないようなバンカラな子だったから僕はずっと・・・でもやっぱり愛おしくて・・・。
結局彼女は(午前)2時か3時くらいに帰っていって・・・(家まで)送ろうかって言ったけど、大丈夫、帰れるからって・・・。で、そのまま僕はベンチで朝を迎えるんですけど、もうドキドキだし、興奮しちゃって、寝れなくて寝れなくて・・・。気がついたら朝になっていて、結局一睡もしてない野宿・・・それがかれこれ、あちこち旅をしてテントを張ったり、多分1000回以上テントに泊まっているはずだし、野宿もしているはずですけど、第一回っていうのはそれですね」
(編集部中:実はナツコさんとの微妙な関係は大人になっても続いていたそうなんですが、その恋模様についてはぜひ本を読んで確かめてください。益々、胸がキュンとしますよ)
人生の転機となった一通の手紙
※斉藤さんがアウトドア雑誌「BE-PAL」のライターになるきっかけは実は、編集部に宛てた一通の手紙にあったんです。
詳しくは本に載っているので、ここではかいつまみますが、大学生の時に、ひょうなことからゴムボートで中国の大河「揚子江(ようすこう)」を旅することになった斉藤さんは、愛読していた「BE-PAL」に記事を書かせてほしいと、思いの丈を綴った手紙を出したんです。するとなんと! 当時の編集長から数日後、直筆の手紙が、それも速達で届き、直接会って話がしたいと書かれていたそうです。
斉藤さんの手紙には、プロの編集者を魅了する力があったということなんですね。それがきっかけとなり、斉藤さんは編集部に出入りするようになったんですが・・・。
●「BE-PAL」で最初に書いた連載の記事はどんな記事だったんですか? 揚子江の記事は書いたんですか?
「揚子江(の記事)は普通に(本名の)斉藤政喜という名前で書かせてもらって、食べるためってのもあるんですけど、要するに『BE-PAL』の記事を作りたかったんですね。ライターとして今回はこんな特集をやるからっていうので・・・だけど、やったことがないし、しかも文章の勉強なんかまったくしてないし、だから最初はアシスタントですよね。いろいろなものを集めたりとか、ファッションの撮影があったらついて行って、カメラマンが(カメラを)構える横で、レフ板を一生懸命(被写体に)あてたりとかいろいろしながら・・・。
で、わかったんですけど、要は給料はもらえないんだってことに気づいて・・・なってから気づくお前もお前だって言われたんですけど、やった結果でしかギャラって払われないんですよ。フリーってみんなそうですけど・・・だからページを何ページやったらページあたりいくらってギャラが払われるから、自分で仕事を取らなければ、何も収入がないという状況でして、ある意味、本当に平等なんですよね。
そこには学歴も関係ないし、年齢も関係ないし、みんな一律なんですよ。(仕事を)やったらやった分だけ、そのギャラが出ると・・・それで仕事をだんだん覚えてきて・・・今思えば本当に恵まれていたのは、編集長自らが、お前この世界に来いって言ったもんだから、とにかく毎日来いって言われたんですよ。
編集部にも毎日行くと一緒に食事とかご馳走になって、夜は酒を飲みながら食事して・・・で、その時にいろんな話を聞いたりとか、それが刺激になるし、そういうことしているうちに、だんだんと文章も少しずつ書けるようになって・・・だから最初はライターをやっていましたね、ずっと。
だけどある時にやっぱりフリーのライター・・・まあなんでもかんでもフリーランスはそうですけど、仕事が来ると嬉しいから、いろいろ引き受けちゃうと結局休みもないし、俺、旅に行きたくって、自由になれると思って、フリーになったのにぜんぜんフリーな状態じゃないじゃんって思ったんですよね。
それで一回仕事を引き受けないで、生意気なんですけど(笑)、海外に行ったんですよ。当時マウンテンバイクが流行り始めたから、それでとことん(旅をしようかと)パキスタンと中国の国境にクンジュラブ峠って峠があって、それが(標高)4〜5000メートルなんですけど、そこまで行こうと思って行ったんですね。
ずっと旅をして何ヶ月も旅をして、旅の最後はどうしようかなって考えた時に、道の終わりまで行ってみたい、道の終わりってどこよっていったら、この先はもう行けないよっていうのを考えた場合に世界最高峰のエベレスト、そこにベースキャンプがあるんですね。(標高が)5500メートルくらいですけどね。その先はもう登山の領域だし、当然登山料とか必要になってくるけど、そこまではトレッキングの領域なんですよ。じゃあそこまで自転車で行こうと思って、自転車をずっと押していったりとかしていたんですよね。
そういった旅を終えて帰ってきたら、ちょうど『BE-PAL』が100号記念かなんかで、東京から大阪まで東海自然歩道っていう道があるから、そこを歩かないか? 歩いて連載しないか? って言われたんですよ。
それで、斉藤政喜って名前じゃつまんないから、お前はネパール帰りだし、シェルパ族のシェルパでいいだろう、”シェルパ斉藤”にしろって言われたんですよね。シェルパって、クーンブ地方って言うんですけど、あの辺に住んでいる山岳民族で高地に強いから登山のガイド的な代名詞になっていますよね。考えたら読者を歩く旅に導くって意味ではシェルパでもいいかなと思って、それを受け入れて、かれこれデビューして33年から34年になるのか・・・ずっと(『BE-PAL』)で書いていますけどね」
●シェルパ斉藤としての原点はそこだったわけですね〜。
「そこですね」
これからが僕の本番!?
※現在も野営の道具を持って歩く旅を続けている斉藤さんは今、旅に対してこんな思いを持っています。
「旅はまだまだこれからだなと、僕は実は思っていて・・・」
●まだまだこれから!?
「まだまだこれからっていうか、実は2年前にコロナの影響もあったんですけど、その時に僕60歳、還暦を迎えたんですよね。その時にふと思ったのは、今まで40年間くらい旅をずっとしてきたんだけど、これってこれから旅をするための養成期間だったんだなと思ったんですよ。いろんな旅をしてきたけど、60歳を過ぎて、旅をするための養成学校だったんだって思えると、これからが僕の本番だぞって思えたんですよ。
本当に長い40年もかかる学校をようやく卒業したんだ! いろんなことをやってきたけど、あれはみんな学ぶためにやってきたんだ! だからこれからはそれを実践していく場なんだって思ったら、なんかすごく未来が開けた気がして、あっ!これからが本番じゃないかって」
●その本番はどんな展開になりそうですか?
「今までいろいろやってきたことの繰り返しも当然あるでしょうし、それからこの年になるとまた発想が変わってくるので、正直言ってしまうと当然、体力も落ちているからだけど、それはよりゆっくりといろいろなものを見るために、お前の体力を落としているんだぞって考えたら、いろんなものが見えてくるんじゃないかなと思いますしね。だから来年どんなことに興味を持つかわからないけど、興味を持つものをやってこうかと・・・」
●この本を読んで、本当に人生には無限の可能性があるっていうのをすごく感じることができました。
「あっ! それは僕もちょっとそういうのは頭に置いて書きました。 この本を読んでいる同世代の方も、当然読めば、あ〜懐かしいねって思いもあるんだけど・・・僕、実は18歳の時に家業が潰れちゃって、自立して自活して、もう自分で生きていくしかないっていう道で、ある意味道を切り開いてきて、自分でお金を稼いで大学に行ったりとかしたんですけど、ただ何をすべきかずっと見えなくて・・・さっき話したけど、たまたま一通の手紙によって切り開けたんですよね。
それは若者にやっぱり伝えたいな、何があるかわかんないから、本当に可能性っていくらでもあるんだよ! ってことを、勇気を与えたいな、偉そうに言うと・・・。だから、今の歳になって昔の話を書けたので、それは若者に対するメッセージとして受け取ってもらえればなと思っていますけどね」
●では最後に音楽好きの斉藤さんが、あの時の僕に捧げる曲を1曲あげるとしたら、どんな曲でしょうか?
「昔聴いていたんですけど、20歳の時に結構音楽を聴いていて、東京に出てきて、よくレコードを買っていたんですよ。レコードも輸入盤のレコードばっかりをずっと買っていたんですけど、やっぱり自分を鼓舞する曲(を聴いていましたね)。
もうほんとうに辛いし、ひとり暮らしだし、仕送りもないしって時に、自分を鼓舞する曲をよく聴いていて、特に印象に残っているのが、ボブ・シーガー・アンド・ザ・シルヴァーバレッドバンドの『アゲインスト・ザ・ウインド』っていう曲があって・・・その曲がすごく好きで・・・。
その『アゲインスト・ザ・ウインド』の後半のところに、『アイム・オールド・ナウ・バット・スティル・ランニング・アゲインスト・ザ・ウインド』「俺はもう若くないけど、それでも俺は風に向かって走っているんだ」っていう歌詞があって、当時もそれ聴いていて、わっ! と思ったんだけど、今この歳になって聴くと、本当にそれをもう一回言いたくなるな。
だからあの時の僕に言いたいとしたら、本当にもう今「アイム・オールド・ナウ・バット・スティル・ランニング」、正しく言うなら「バット・スティル・ウォーキング」ですかね。「ウォーキング・アゲインスト・ザ・ウインド」、風に向かって僕はずっとまだ歩いているぞ! っていうのはやっぱり言いたいですね!」
INFORMATION
この本には、斉藤さんの少年時代からフリーのライターになるまでの出来事が綴られています。見開き2ページでひとつの話題が完結しますし、なにより斉藤さんの文章は親しみやすので、すいすい読めますよ。ドラマチックな青春映画のような本、ぜひ読んでください。しなのき書房から絶賛発売中です。詳しくは出版社のオフィシャルサイトをご覧ください。
◎しなのき書房HP:http://shinanoki.net/?pid=172662166
斉藤さんのオフィシャルサイトもぜひ見てください。
◎シェルパ斉藤さんオフィシャルサイト:https://team-sherpa.wixsite.com/sherpa
2021/4/11 UP!
今週のベイエフエム / ザ・フリントストーンのゲストはバックパッカー、そして紀行作家の「シェルパ斉藤」さんです。
斉藤さんは1961年、長野県生まれ。本名は「斉藤政喜(まさき)」さん、学生時代に中国の大河、揚子江をゴムボートで下ったことがきっかけで、フリーランスの物書きになり、1990年に作家デビュー。現在もアウトドア雑誌「BE-PAL」でバックパッキングや自転車など、自由な旅の連載を30年以上続けています。また、1995年に八ヶ岳山麓に移住。自分で建てたログハウスで自然暮らしを楽しんでいらっしゃいます。
斉藤さんは、実は20年以上にわたって、息子さんの成長の節目にふたりで旅をしていたんです。そんな斉藤さんの新しい本が『シェルパ斉藤の親子旅20年物語』。長男の「一歩」くんが、6歳から27歳までの成長の節目に、親子ふたりで旅をしたときの紀行文をまとめた一冊なんです。 きょうは、お父さんと息子さんのハートウォーミングな「親子旅」についてうかがいます。
☆写真協力:シェルパ斉藤
6歳の息子とバックパッキングの旅
※斉藤さんが一歩くんと旅に出たのは、その1年前に奥様が一歩くんと電車を使って日本全国を回る旅をしたので、「次は僕の番でしょ」ということで、一歩くんが小学生になる直前、6歳の時に八ヶ岳山麓の自宅から四国や関西を巡る旅に出発したんです。
電車や船に乗ったりヒッチハイクをしたりと、最初からバラエティーに富んだ旅になりましたね?
「割とね、僕は普通に旅をしたつもりなんですよ。だからヒッチハイクは正直しようと思っていたわけじゃなくて。息子との旅ってことで僕なりにちょっと気を遣って、何せ体力もないだろうから。かみさんからアドバイスを受けて、一歩が途中で嫌になったら困るからって思いもありましたね。
あの子は電車が好きだったんですよね。だから旅に行く時も最初は嫌だって言っていたんですけど、電車に乗っけてあげるよって言ったら、じゃあ行くって話になったんです。だから色んな電車に乗ったり、宿に泊まったり、遊園地も行ったりとかっていう風にしていたんですけど、旅先からかみさんに電話して、こんなことこういう風にしているよ〜って言ったら“それじゃ〜私(の旅)と変わんないじゃない”って言われて。
自分でもこんなことしていていいのかなって思いもちょっとあったので、“あんたバックパッカーのくせに私の旅と変わんないじゃない”って言われて、それでスイッチが入りましたね。
その時は歩く旅のスタイルじゃなくて、服装も何も持ってなかったから、帰りはヒッチハイクしようかと思って、名古屋の先あたりから家までヒッチハイクしようってことにして、それでやったのがだんだん自分なりに面白くなってきちゃったんですね。要するに普段ヒッチハイクはちょこちょこずっとしていたんですけど、6歳の子とヒッチハイクするなんて経験なかったし。それとね、やっぱり成功率高いんですよ」
●あ、お子さんがいらっしゃると!?
「そう、子供がいると、あんた一人じゃ止まらないけど、こんなに小っちゃな子が頑張ってんだから止まらないわけいかないでしょっていうおばさんが結構いたりとかして、そこそこそれで自信つけたんですよね。
それでその旅が終わった後に、小学校に上がる前に、ちゃんと・・・僕は荷物を背負ってフィールドを歩くバックパッキングって旅のスタイルをずっと書いている人間ですし、そういう旅をずっとやっている人間だから、それを一歩と小学校に上がる前にやろうって決めて、歩く旅の要素や環境が整っている熊野古道を歩こうと思ったんですよ」
●バックパッキングの旅ですよね!? 荷物を背負って歩く旅っていうのは一歩くんにとってどうだったんでしょう? 楽しんでいたように本を読みながら感じましたけど。
「それは最初の旅の時もそうだったんだけど、かみさんと一歩との初めての旅をどうするかっていう時に、とりあえず一歩のペースに合わせるってことと、自分の荷物は自分で持つっていうことは守らせようって話をしたんですよね。
それでちゃんと自分のことは自分でやるんだっていう自覚を、まだ小学校に上がる前だったんだけれども、そういう自覚を持たせることが大事かな。その旅も自分で歩いて前へ進んで行くんだぞっていうのを、まだ未就学の子だったけれども、そうするとやる気が起きるんじゃないかという思いもありましたね」
●やはり旅をする父親の背中を息子さんに見せたいなという気持ちもあったんですか?
「そんな立派なのじゃないけども、ただ父親はこれだけのものを持っているんだぞっていうのは伝わるんじゃないかなっていう・・・要するに二人分の食料とか、それから当然寝床、テントとかそういうのを全て持って歩くわけなので、僕が背負っている荷物大きいんですよ、それを見せる。しかも衣食住どこでも寝泊りできる道具を自分で背負って歩けるんだっていうことを、伝えたいっていうか見せたかったのはちょっとあったかもしれないですね」
息子の成長、親の葛藤
※斉藤さんは一歩くんが小学6年生の時に九州縦断自転車ツーリング、中学2年生のときに、親子での初めての登山、高校2年で50ccバイクでの信州ツーリング、そして23歳のときに、東北の「みちのく潮風トレイル」をトレッキングと親子ふたりでいろいろなスタイルの旅をされてきました。振り返ってみて、いまどんな想いがありますか。
「この本の原稿って後から思い出して書いているんじゃなくて、その旅を終えた時に書いているんですよ。だから考え方も、今こんなんじゃないな、あの時はこんなこと考えていたのかっていうのが自分でも新鮮な部分もありましたね。
だからやっぱり最初は原稿を自分でも読み返して、なんか嫌な大人だなって思う部分もちょっとあったりとかして・・・例えば中学生の頃に山に登った時なんかも“ほら、自分の足で汗かいて山に登るといいだろう?”っていうのを、何か感動を押し付けている部分もちょっと(笑)。
だからいちいち口にしたくないけど、それに対して一歩は“うん”ぐらいしか反応がないんです。あんまり自分でこんなことを口にしたくないんだけど、それを口にしている自分が嫌になったりとか。でも本当こいつ分かっているのかなとかそんなことを考えながら、気を遣っていたっていうよりも、何か完全に上から目線で“山ってこんなにいいんだぞ”っていうのを伝えたくて仕方なかったっていうのが中学、高校くらいまでかな。
でも23歳の時(の旅)はもう完全な、実際20歳になったらもう大人だと思っていたので、その頃から関係が変わってきましたね。もう普通の1対1の旅人的な感じで」
●ひらがなを読めて喜んでいた一歩くんがこんなに大きくなったんだっていうのを、この本を読みながらすごく感じました!
「最初そうですよね〜、高松のうどん屋に入って、そば食いたいなんて言うから、そばなんかあるかって言ったら、“ざ・る・そ・ば”ってひらがなを読んで喜んでいたくらいですから、やっぱり色々と感じますね」
●同じ男性としてやはり息子さんには厳しく言いたいっていうのが、父親のイメージでありますけれども、その点はいかがでしたか?
「最初ですね、いちばん初めの6歳の時なんかは、もう本当にあいつに何でもしてあげようっていう、あげようだったんですよ。小学生になってくると、特に高学年、あの時は6年生くらいだったので、自分で何でもやりたがる歳だったんですね。それを僕はちゃんと受け入れられなかった部分もあって“何、生意気言ってんだ”というそのアンバランスさがね。
彼は彼で背伸びしたい、しかも当時から大人と結構付き合っていましたから、自分はできるんだって部分と、僕は父親としてまだまだお前なんか甘いっていう部分で、そのバランスがね。小学生の時の九州ツーリングはいちばん自分でも(それを)感じて、自分の未熟さも感じたし、それからあいつの背伸びしたがるのをもっと受け入れる時だったんじゃないかって反省もすごくありましたね」
ヒッチハイク、正直かなわない!?
※いろいろな親子旅を通して、一歩くんの成長もそうですが、斉藤さんご自身も成長したと感じたりしましたか?
「そうですね。それぞれの時代に旅をしたっていうのがやっぱりよかったな、しかも全部同じ旅じゃなかったっていうのもね。自分の中で振り返っていくと、どんどん付き合い方が変わっていくし、自分の旅のスタイルをちょっと変えているんじゃないかなって気もしますね」
●例えばどんな風に変わっていくんですか?
「どんどん信頼していく。例えば陸奥の(旅の)時もそうだけれども、全部僕がやるとかじゃなくて、だんだんあいつに決めさせていく部分もちょっと増えていくんですよ。その時はある地点に車を置いて歩き始めて、じゃあ車を取りに行こうかっていう時に、ヒッチハイクで頼むよって言うと、じゃあ僕行ってくるって言ってヒッチハイクして、車もちゃんと運転して帰ってくる。
で、一回、道を間違えたこともあるんですよ。“一歩、この道であっているか?”って言ったら、“いや、違うと思うから戻った方がいいよ”って対等に言ってくれるようになって、その辺は自分でも今振り返って、ちゃんと成長しているんだ、それは一歩も成長しているけど、僕も対等にちゃんと耳を傾けるようになっているなっていうのを、(一歩が)23歳ぐらいの時に感じましたね」
●一歩くんとの成長と共に、シェルパ斉藤さんのライバル意識もちょっと感じました(笑)。
「いや、ライバル意識っていうかね、正直かなわないんですよ(笑)。特にヒッチハイクの時に書いたんですけれども、その当時、僕は55〜56歳だったのかな。もういい歳したおっさんだけど、未だにヒッチハイクしているんですよ。自分一人だとなかなか(車が)止まらないんですよね。ところがあいつがやると3分くらいで止まっちゃうんですよ。
だからあの時は本当に思いましたよね。やっぱり人生の中で可愛がられる年齢って絶対あるんだなって。自分を振り返っても22〜23歳の頃なんて言ったら、どこを旅しても何か皆に可愛がられたなって印象があって、だからそういう時に旅しないと本当に人生損すんじゃないかなって思ったくらいですね。何でこんなにこいつヒッチハイクが上手いんだっていうのは羨ましかったですね」
自分の子供じゃない感覚!?
※きょうは斉藤さんの新しい本、長男一歩くんとのふたり旅の紀行文をまとめた本『シェルパ斉藤の親子旅20年物語』にそってお話をうかがっていますが、最終章がとても感動的でした。どんな旅だったのか、ごく簡潔に説明していただけますか。
「そもそもシェルパ斉藤って名前は・・・30年以上前に自転車でネパールを旅したんですよね。その旅の終わり、最後はどうしようかって時に、旅の終わりを選ぶなら、もう道の終わりまで行こうと。で、道の終わりは何かって言ったらそれはエベレスト、この先はもう登山しかない、普通に行ける最後はエベレストのベースキャンプじゃないか。で、そこまで自転車で行ったんですよ。
(日本に)帰ってきたら、BE-PALで今も連載やっていますけれども、そこで歩く旅の連載をしないかと言われて、それでシェルパ族の故郷から帰ってきたばっかりだし、読者を歩く旅に誘うわけだから、ガイドするわけだから、登山のガイドとして定着しているシェルパっていう名前を付けられたんですよね。
で、シェルパ斉藤っていう名前になったんですけど、そのシェルパ斉藤として(連載記事を)書き出してちょうど30年目に、30年企画で何か面白いことやろうよって話になった時に、やっぱり原点だな、自分の原点としてもう一回ネパール行きたいな、ネパールを旅したいな。で、気づいたのがですね、15〜16年前かな、一回世界のトレイルをあちこち歩いた時に、ネパールではアンナプルナってところに行ったんですね。
結構ぐるっと周るサーキットですけど、当時そこいいな、もう1回行きたいなと思っていたんですけどね。そこにモータリゼーションでだんだん道路ができていて、一応未舗装のダートなんですけど、道路が今通じていると。だったら自転車で行けるんじゃないかな。昔30年前、自転車でずっとエベレストのベースキャンプまでかついで行ったんですけど、普通に走れるんじゃないかな、そこ行こうよ、よし行こうと思って決めて、その夏休みかな、息子が当時もう就職していたんですけど、(家に)帰ってきていたんですよ。
その時に“今度お父さんネパールに行くんだ、いいだろ? お前も行くか?”ってふらっと言ったら“行く”って言ったんですよ。“本当か? 交通費くらい出してやるけど本当に行く?”って言ったら“行く”って。
一歩はモンベルってアウトドアのメーカーで働き始めていて、アウトドアに関しては理解がある会社だから、多分10日くらい休めるよって話になって、じゃあ行こうか! ってことで、懐かしのネパールに息子と二人でマウンテンバイクで、さらにムクティナートっていう聖地があるんですよ、そこを目指す旅に出かけたのが2年前ですね。2019年です」
●やはり一人で行くのとはまた全然違いますよね、親子旅で。
「今回に関しては親子旅って言うよりも、何かもうパートナーとして行く、気の合うパートナーっていうか、信頼できるパートナーと行くっていう感じが近かったかな。で、やっぱりいちばん鮮明に覚えている旅っていうか、いちばん近い旅なので思ったんですけど、その時に感じたのは、この子は自分の子供だけど自分の子供じゃないんだっていうのを強く感じたんですよね」
●と言うと?
「例えば旅先で、僕は30年前に自転車でずっとアジアを放浪して、最後ネパールに行ったりとかしていたんですけど、自転車が何かおかしくなっちゃったら、もう旅はおしまいなので、出来るだけ大事にしていたんですよね。地域の人が自転車を触ろうとしたらダメ! みたいな感じで断っていたんだけど、あいつは1日走り終えて、近所の子供たちが来たら自ら遊びに行くんですよ。
一緒にバレーボールしたり、自分の乗っている自転車に乗ってみる? みたいな話とかして乗らせたりして、キャッキャと遊んでいるんですよね。僕はその間1日走り終えた自転車のメンテナンスとかしているんだけど、一歩はずっと遊んでいるんですよ、近所の子供たちと。
これは僕の子だけど、半分はやっぱり子供が大好きなかみさんの血が入っているんだっていうことを、その時つくづく感じて。だからこいつは僕の要素もあるけど、かみさんの要素をちゃんと持って成長しているんだなと思ったら、より人間として1対1で、僕の要素も持っている、違う別の旅人、別の人間として、自覚を僕が持てたって感じですね」
全力で楽しむ!
※一歩くんもこの時の、ネパールの旅の紀行文を書いています。そこに父親に対する気持ちも書かれていて読んだ時、じ〜んと来ました。
●斉藤さんどうでした? 読まれた時。
「やっぱ嬉しかったですね。こうだったんだな、確かに僕がこう意識していた部分もちゃんと原稿に書いていて。例えばそれは、基本的にいろんなトラブルが起きるんですよ。トラブルが起きることに対して、僕は経験者だし、いろんな旅のノウハウもあるから、だったらこうしたらどうだ? っていう色々選択肢を出すんですね。こういう方法もある、こういう方法もある。で、どうする? っていう最終決定は一歩にさせようと思っていたんですよね。
それをやっぱりあいつも感じていたらしくて、いつも何かがあると色々とすかさず答えを出す。答えじゃなくても選択肢を見つけて来るのは、解決方法を見つけてくるのは僕であって、決定権は僕(一歩)にあるっていうのがよかったと書いてくれて、それはちょっと嬉しかったですね」
●やっぱり旅好きに一歩くんも育ってますけれども、一人旅を好む青年になっていますよね?
「時間があれば、モンベルって会社にいるもんですから、しょっちゅうアウトドアに行ってますね。つい先週も行ったみたいですし」
●会社員となって30代目前の一歩くんにどんな言葉を贈りたいですか?
「もう好きにすればっていう感じですね(笑)。僕今回、後書きで最後のところに、夢は孫連れバックパッカーなんて書いたんだけど、それは本人にとってすごくプレッシャーになっちゃうし、そういうのは、今しゃべっておきながら言うのもなんだけど、それは絶対やめようと。考えたら、僕が30歳の時なんか本当に好きにやっていましたもんね、そう思いますね」
●いつか三世代で旅できたらいいですね!
「と思って言っちゃうとプレッシャーになるから言わないです!(笑)心の中でそう思っているというか、三世代にはならないようにしましょう! それぞれ好きにしましょう! ということかな(笑)」
●息子さんを連れて旅に出たいと思っている世の中のお父様方に、アドバイスを送るとしたらどんなことがありますか?
「最初僕もそうだったんですけど、子供のことを考えてとか、こうすれば子供にいいんじゃないかって考えていたんですけど、それも大事ですけどね、常に全力で遊ぶこと、ということかな。自分を振り返って割と全力で楽しんでいた気がします。
子供のためっていうよりも、自分が楽しかったから全力で頑張って、特に体力を使う旅が多かったから、汗を流して全力でやっていましたね。で、結局ね、子供の楽しみって何かって言ったら、父親が全力で喜んでいることじゃないかな〜。その姿を見たら多分子供も喜ぶんじゃないかなと思うので、子供というか息子、娘に限らず、遊ぶ時は全力で遊びましょうよっていうことがアドバイスになるかな・・・」
●確かに親の、全力で楽しんでいる姿は嬉しいです、子供として。
「やっぱ楽しいですよね。楽しいことを楽しくやる、素直にいればいいんじゃないですかね」
※この他のシェルパ斉藤さんのトークもご覧下さい。
INFORMATION
『シェルパ斉藤の親子旅20年物語』
息子さん一歩くんの、旅を重ねるごとにたくましく成長していく姿と同時に、斉藤さんの、一歩くんを見る目が変わっていくのもよくわかります。微笑ましく読めるハートウォーミングな親子旅、子育て中のパパやママにも読んで欲しい一冊です。産業編集センターから絶賛発売中です。詳しくは出版社のホームページを見てください。
◎産業編集センターHP:https://www.shc.co.jp/book/14478
「シェルパ斉藤」さんの近況についてはオフィシャルサイトをご覧ください。
◎シェルパ斉藤オフィシャルサイト:https://team-sherpa.wixsite.com/sherpa
2020/5/9 UP!
今週のベイエフエム / ザ・フリントストーンのゲストはバックパッカー、そして紀行作家の「シェルパ斉藤」さんです。
本名は斉藤政喜さん、1961年、長野県生まれ。学生時代に中国の大河、揚子江をゴムボートで下ったことがきっかけで、フリーランスの物書きに。そして、アウトドア雑誌BE-PALでバックパッキングや自転車、ヒッチハイク、犬連れなど、自由な旅の連載を、30年以上続けています。1995年に八ヶ岳山麓に移住。自分で建てたログハウスで田舎暮らし。踏破した国内外のトレイルは60本以上と、まさに歩く旅のスペシャリストでいらっしゃいます。
そんな斉藤さんが作家デビュー30年を機に、BE-PALの連載記事から「歩く旅」を厳選し、先頃、一冊の本として出版されました。きょうは歩く旅の魅力や忘れられないエピソードなどうかがいます。
☆写真協力:斉藤政善
「歩き=生活」という感覚
※まずは、斉藤さんはいつ頃、歩く旅に目覚めたのか、お聞きしました。
「30年以上前になりますね、最初は歩く旅じゃなかったんですよ。オートバイをやって、で、オートバイだと物足りないからっていうのもあって、自力で行こうと思って自転車に移ったんですね。それで自転車でアジアをずっと旅をしている時に、パキスタンとかインドとかずっと回ってネパールに入ったんですよ。
で、ネパールに入った時に外国人のバックパッカーたちが割と普通に“ヒマラヤにトレッキング行ってくるから〜”って言って気楽に出かけていたんですよね。これまでヒマラヤのトレッキングといったら本当にちゃんとした技術があったりとか、山専門の方の専門分野だと思っていたのが、意外にみんな旅人がふら〜っと行くもんだから、じゃあ自分も行ってみよう! と思って行ったらすごく楽しかったんですね。
それは何が楽しかったっていうと、本当にね、みんな歩いているっていう感覚。例えば、日本だとモータリゼーションというか、車が当たり前なので、歩いてしか行けないところって、実はあんまりなかったりするんですけど、ネパールを旅した時にはそこに生活している人はみんな歩いている、その中に僕が歩いて入り込んでいくっていう、本当に“歩き=生活”だっていう感覚をその時に味わって、それからですね、歩く旅って面白いなって。
それまでの僕はどっちかと言うと“遠くまで行かなければ! より遠くへ! ”って思いがあったんですけど、逆に歩くことで、遠くへ行かなくても楽しめることが分かった。しかも早く行く必要もないってこともその時に分かりましたね」
父と息子の男旅
※続いて、国内外の各地やトレイルを数多く歩いてこられた斉藤さんに特に思い出深い旅はどこだったのか、お聞きしました。
「実はまだ終わっていない旅なんですけれど、東日本大震災の被災地を一本の道で繋ぐ、みちのく潮風トレイルってあるんですよ。それを僕は(そのトレイルが)できる前からずっと関わっていたもんですから。距離が1000キロあるんですよ、それをずーっと小まめに歩いていまして。
歩き始めて7年経つんですが、未だに全然終わっていないんですよ(笑)。多分全体の2割もいっていないくらい。毎回行くことによってある意味、被災地に対する支援にもなっているかなって思いもありますし、それから子どもと歩いたりもしたんですよ、息子を連れて行ったりとか」
●父と息子の絆を深める「ザ・男旅」っていう、すごく、男同士の旅いいなー! って思いました!
「本当に僕もすごく印象に残っています。滅多に一緒に歩くってことがないし、小っちゃい子と歩く、まあ小学生くらいと歩くならいろいろと、お父さんがお父さんが! とかって感じになるんだけど、もう大人になってからの息子と歩くっていうのは・・・。ほとんど喋らないんですよ、あいつ!」
●そうなんですか〜(笑)
「僕もあえて喋らないし、黙ったまま。だからタイトルで“ザ・男旅”って付けたのも、喋らないんだなぁ。だけど、じゃあつまらないかっていったらそうでもなくて。その時うちの子が進路で悩んでいたんですよね。で、ああしろ! こうしろ! とは言わないけれども、父親としてアドバイスくらいはできるかなと。それを語る上で、家とは違って、歩いてからテントを張って、夜、焚き火を囲んで語り合うって、なんかいいんじゃないかな、っていう思いもあって連れて行ったんですけどね」
●なかなか普段だとそういった深い話とかもできないですもんね!
「そういう意味では、うん、歩く旅よかったかも知れないですね」
<みちのく潮風トレイル>
さて、きょうのゲスト「シェルパ斉藤」さんが特に思い出深い旅と話してくださった「みちのく潮風トレイル」。以前この番組でも私の名前、小尾渚沙にちなんで、東北の渚を歩くトレイルとして少しお話したことがありますが・・・改めてご紹介すると、『みちのく潮風トレイル』は青森県八戸(はちのへ)市から福島県相馬(そうま)市まで、東北4県・28市町村の太平洋沿岸をつなぐ総延長1000キロの自然歩道で、東日本大震災からの復興支援を目的に、環境省が中心となって整備しました。
最大の魅力は、海の景観をダイナミックに感じられるスポットの豊富さで、日本一美しい断崖や、リアス式海岸ならではの風景、世界有数の豊かな漁場などを、のんびりと歩いてめぐることができます。自然が作り出した素晴らしい景色や、海の幸・山の幸など自然の恵みを楽しむことができる一方、津波の痕跡など、自然の厳しさを見せつけられる場所もあります。
そしてそんな自然と向き合ってきた東北の人々の歴史や文化にも触れられます。
『みちのく潮風トレイル』を歩く上で必要な情報は公式サイトに詳しく掲載されていて、歩く距離やルート、立ち寄りスポットなどを分かりやすく説明したモデルコースもいくつか設定されています。
また、宮城県名取市にある『名取トレイルセンター』ではハイカーや地域住民がくつろぎ、交流できる空間を提供しています。『みちのく潮風トレイル』の全線踏破を目指す方は、『名取トレイルセンター』のホームページをチェックしてみてください。全線踏破した方に証明書を発行したり、達成した人だけが購入できる記念品などが掲載されています。
◎みちのく潮風トレイル:http://tohoku.env.go.jp/mct/
◎名取トレイルセンター:https://www.mct-natori-tc.jp
歩くことで前向きに
※続いて、歩く旅のいちばんの魅力について、お話いただきました。
「なんかつらい時とかね、特に今は本当につらい状況がどこも続いていると思うんですけど、それでも前向きな感じになれるんですよね」
●前向き?
「常に前に進んでいるからかも知れないんだけれども、割と肯定的に考えられるんですよ。
僕の場合はひとり旅をしているからっていうのもあるんだけど、ひとりで歩いていて何が面白いんですか? って言われちゃうんだけど(笑)なんか歩けばね、答えが見つかる気がするんですよ。
今じゃあ自分が何をすべきかとか、落ち込んだ時でも歩いていれば、なんかいいアイデアが浮かんだり。わずかながらでも進んでいる感じは“少しずつでも歩けば、必ず解決するんだ!”っていうポジティブ・シンキングになれるんですよね。自分の体力でここまで来たっていう自信というか、それもあるかもしれないし。それから、あまり人と会わないから、会う人に対して優しくなれるっていうか・・・。
実は家からずっと2日間、犬と歩く旅ってやったんですよ。誰とも会わないんですよね。
僕は今八ヶ岳の麓に25年間住んでいますが、歩いたことがない道があって、そこを歩くと、“あ、こんなところあったんだ!”っていう発見がありましたね。これがひとりで歩く旅の魅力かなと改めて思いました」
道草を喰いやすく
※「歩く旅」にこだわってきた斉藤さん、年齢を重ね、旅を重ねて、自分の中に何か変化はあったのでしょうか。
「ありますね、歳を重ねていろんな経験を重ねてくるとですね、“ここはこんな風になっているのか。それはどういう意味なんだろう”っていうことが考えられる。だから割と思考回路が働きながら歩くっていうのもあるし。それと欲張らなくなってくるんですよね。より遠くまで行きたいとかが、ここでやめてもいいやっていう、ある意味開き直りじゃないけど(笑)。すぐ妥協しちゃうところが、まぁそれは道草を喰いやすくなっているっていうことかなぁ」
●今後行きたい旅先はどこですか?
「矛盾しちゃうんだけど、要するにいろんなところに行けるって意味では、近くもいいけど遠くも単純に行きたいって思いもあって、フェロー諸島。デンマーク自治領か何かなんですけれども、そこは特異な景色が、すごい絶景があるらしくて。たまたま10年くらい前にオーストラリアのトレイルを歩いていた時に、そのフェローアイランドから来ている旅人と知り合って、“うち、いいからおいでよ!”って言われて、それからずーっと気になっているところです」
●へぇー!
「そこは大して長い距離はないんだけど、島から島へ、ゆっくり絶景を見ながらのんびり歩きたいなと思っていますね」
☆過去のシェルパ斉藤さんのトークはこちらをご覧下さい。
INFORMATION
シェルパ斉藤さん情報
新刊『シェルパ斉藤の遊歩見聞録』
シェルパ斉藤さんの新刊『シェルパ斉藤の遊歩見聞録』は、アウトドア雑誌BE-PALに連載してきた紀行文の中からハイライトともいえる旅を選び、「山を歩く」「島を歩く」「犬連れで歩く」など7つの章に分け、書き下ろしも加え、「歩く旅」の魅力に迫っています。また、歩く旅に必要な装備や犬連れ旅のアドバイスなども載っていますよ。
小学館から絶賛発売中です。ぜひ読んでください。
●小学館のHP:https://www.shogakukan.co.jp/books/09388766
斉藤さんのオフィシャル・サイトもぜひご覧ください。
●シェルパ斉藤さんのHP:https://team-sherpa.wixsite.com/sherpa