2022/9/16 UP!
今日ご紹介するのは伊能忠敬です。伊能忠敬は江戸時代1745年、現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳の時に佐原、現在の香取市でも有力な商人であった伊能家当主となり、名主や村方後見として家業だけでなく、村のためにも活躍します。その後で、地図を作るんですね。香取市佐原にある伊能忠敬記念館で学芸員をされている石井七海さんに、まずは伊能忠敬が地図を作り始めたきっかけをお話いただきました。
石井さん:忠敬はですね、最初から地図を作ろうと思って作ったわけじゃなくて、天文暦学を学んでいた忠敬は、その課題解決のために測量を行ったっていうのがあります。というのも、天文暦学の当時の課題として、あの「正確なカレンダーを作るために地球の大きさを知りたい」という課題がありまして「その地球の大きさを調べるためには、緯度1度の大きさが必要だ、それを360倍すれば、地球の大きさがわかる」ということで、じゃあ「緯度1度の大きさを測ろう」ということになりまして。忠敬が私がそれをやりますということになりまして。 最初は浅草から深川までの距離を測っていたんですけれども、そんな短い距離ではあの誤差が生じてしまうというふうに、当時の先生から言われまして、じゃあ江戸から蝦夷地、北海道までの距離を測って、それで緯度1度の大きさを導き出してこいというふうに言われまして、そこがきっかけで測量を始めまして、地図はその副産物としてできていたわけですね。
天文暦、今でいうカレンダーを作るのに地球の大きさを知らなくちゃいけないので、測量を始めたってことなんですね。その時の天文暦の先生が結構スパルタな方で「浅草と深川の間の距離じゃ短すぎるから誤差が出る、北海道までの距離を測ってこい」と。極端な話ですよね。でも伊能忠敬は喜んで出かけていったそうんなんです。
それには伊能忠敬の人生が関係している、こんな理由がありました。
石井さん:
生まれは九十九里の方でして、17歳になってから佐原でも1・2位を争う大きなお家である伊能家に養子入りしました。で、養子入りしてから佐原の政治や伊能家の経営などを一生懸命頑張って49歳で隠居します。50歳から天文暦学の勉強を始めて、なんと55歳で蝦夷地に出発・・測量の旅に出発します。おじいちゃんです。幼少期学問を非常に好んでいて、学問で名をあげたいと思っていたけれども、非常に忙しい佐原の名家である伊能家に養子入りして、伊能家での仕事や、佐原での仕事を頑張る、佐原での仕事があるから学問を諦めた、やめたというふうにありまして。なので、その隠居してからその好んでいた学問を再開して、それで名をあげようじゃないですけれども、このこういう機会を得たのは天命だというふうに、忠敬、のちのち語っておりますので、そういうことがあったのかなというふうには思いますね。「好きなだけやらせてもらうぞ」っていう感じではあったんじゃないかなっていう風には。 思いますね。
伊能忠敬は測量、そして地図を作ったことで有名ですが、実は佐原の名家「伊能家」の今でいう「運営」に大変才能を発揮した人だったんです。伊能家名主となった忠敬は地域のリーダーとして活躍をして、佐原の村の人々から絶大な信頼を得ていました。こんな話があります。「天明の大飢饉」で国中が困窮し打ちこわしや一揆が頻発したころ、忠敬は手持ちの食糧や金を放出して、農民、町民など人々の生活を守りました。 これは、忠敬が「米や金は伊能家だけのものではなく、地域で共有する資源である」という考えに基いて行動したからで、佐原では暴動は起こらなかったそうです。また忠敬は地頭と交渉して年貢を下げたり、村同士のいさかいを仲裁するなど、実質的な指導者として人々の信頼を勝ち取っていたようです。
伊能家名主として佐原で活躍したあと隠居、55歳にして測量の旅にでかけた伊能忠敬さん。そのあとどうなっていったんでしょうか。
石井さん:忠敬の測量の旅は計十回行われるんですけれども、最初の四回はほぼ私費で行っていたものなんですけれども、五回目から国家プロジェクトじゃないですけれども、幕府の仕事として測量を始めることになって、手当も幕府から出るようになりまして、人員とかも豊富に使えるように、五回目以降はなりました。第四回までの成果をまとめたものを一応幕府に提出するんですけれども、それを見た将軍の家斉が非常に驚いて、自分の国はこんな形をしているのかっていうふうに驚いたとは思いますね。忠敬は測量に対して毎日欠かさず日記をつけておりまして、それがあの「忠敬先生日記」もしくは「測量日記」として記念館に残っております。主に業務日誌なので、あの何月何日にどういう所に行って、あの昼ごはんはどこで食べて、どこに泊まったっていう記録ではあるんですけれども、たまにあの誰、誰と会ってこういう話をしたとか、宿泊先で器具を壊されたとか、たまにそういうエピソード的なこともちょこっと出てきます。
55歳から旅に出て71歳まで測量、そして地図作りをした伊能忠敬。まさに、全国行脚していたわけですね。最終的に日本全国を三枚にまとめた小図(しょうず)、日本を8分割した中図(ちゅうず)、そして、各都市などを細かく測量した大図(だいず)が二百十四枚も作られました。一枚の大きさはおよそたたみ1畳ぐらいなのだそうです。これは是非本物を見てみたいですね。
最後に石井さんに、伊能忠敬記念館にある国宝についてお話いただきました。
石井さん:
伊能忠敬記念館では伊能忠敬関係資料2345点を収蔵しておりますが、これ2345点すべて国宝になっております。非常にわたくしも、学芸員ですけれども、これまでにないくらい気を遣いながらあの管理をしております。
記念館ではですね 常に忠敬の地図飾っておりまして、国宝の現物を見ることができます。また、あの向かいには、忠敬の旧宅が史跡として保存されておりまして、忠敬の過ごした場所を見ることができます。55歳から測量を始めて、正確な日本地図を作ったというその忠敬のエネルギッシュさを、ぜひこの国宝の現物を 間近で感じて欲しくてですね、ぜひ記念館に来ていただきたく存じます。文字資料とか、忠敬が読んだ本なんかを9月から私が担当している企画展でたくさん出そうと思っておりますので、「渾天地球の妙を描く 忠敬の学びと挑戦」というタイトルで展示を企画しております。(9月13日〜11月13日)
学芸員の石井さん監修による特別展示も行われているので、是非一度ご覧になってみてください。ちなみに、国宝は文化財の保護ため1年に2ヶ月しか公開することができないという指針があります。ですので伊能忠敬記念館では、2ヶ月ごとに、数多くある所蔵品の中から展示品を入れ替えて公開していらっしゃいます。1年に6回展示替えをしているということですので、ぜひ
なんどでも足を運んでださい。地図作りだけでなく、伊能家名主として活躍したころの資料なども見ることができるそうですよ。
https://www.city.katori.lg.jp/smph/sightseeing/museum/schedule.html