2023/5/19 UP!
今回は、「千葉の水辺のお話」ということで、今の旭市にかつてあった大きな「湖」についてご紹介したいと思います。そこは「椿の海」と呼ばれていました。かつてということは今はもうないということなのですが、いったいどんなところだったのでしょうか?そして、湖が無くなった後はどうなってしまったのでしょうか?
江戸時代よりも前は、現在の茨城県との県境を流れる利根川は、川の形もだいぶ違いました。水面の面積もかなり広く、大きな湖がありました。印旛沼や霞ケ浦なども含まれます。そして、今回は今の旭市あたりにあった椿海(つばきのうみ)という場所のご紹介です。
今回は、旭市あたりでは「先生」と呼ばれて人々から慕われ、この地域を中心に、世界で初めて、今でいう「農業協同組合」をつくり、農民の暮らしの向上を目指した大原幽学のことを展示している「大原幽学記念館」の学芸員、猪野映里子さんにお話を伺っています。まずは、その湖はどんな湖だったのかお話いただきました。

猪野さん:大原幽学という幕末の人物がおりまして、その方の品を展示する館なんですけれども、郷土展示室がありまして、この地域の歴史を紹介したりですとか、資料を調べたりする仕事をしています。もともとの湖は南北5~6キロぐらいで東西が12キロぐらいの非常に大きなサイズの湖でして、もともとは湖のできたのが、縄文時代の終わりぐらいと言われてて、その頃にその九十九里平野が出現したところとほぼ同時期に土地が持ち上がって、低いところに残った水が、ふさがれていって湖になったのが、椿の海になったといわれています。
実は東京ドームだと1000個分以上の広さになるんですが、江戸時代、農地にするために干拓されたんです。

猪野さん:江戸時代の初め頃なんですけれども、この頃にですね、非常に新田開発というのが奨励された時期で江戸に住む資金を持っている方ですとか、幕府とかがこういう広い水田になりそうなところを積極的に新田にしていきましょうという政策の中で、こういった開発が進められていっています。干拓計画された時に、まずその現地調査みたいなことで測量に入りまして、その水面の高さと湖の底の高さと海岸のところの高低を測って。これは排水路を掘れば水が抜ける、というような調査結果で水を抜いて干拓しようというような計画がされています。もともとやっぱり、大きい湖ですので、周囲の村の人たちはそこをまあ要するに用水源として使ってたこともありますし、それで絶対被害が出る、反対ということで、非常にその当初、干拓の反対の声がとっても多かったです。

当時、江戸幕府ができて、小さな町だった江戸の人口が爆発的に増えたため食糧不足の心配があり、広く新しい田んぼが必要となって大規模な耕作地の開拓が各地で進められたんだそうです。そこで江戸から近かったこの「椿の海」が対象となり今からおよそ350年前の寛文11年、1671年12月28日から干拓工事が始まりました。計画自体は、さかのぼること50年以上前の記録に「幕府に椿の海の干拓の許可を江戸幕府に求めていた町人がいた」と記されているそうです。地元の方々の反対も強かった中、干拓はどのようにして行われていったので しょうか?そして、どのぐらいの年月が必要だったのでしょうか?

猪野さん:やっぱりその周囲の反対とか訴訟がおこされた事もあって、またその工事が止まる前に、とにかく早く工事を進めちゃうということで、いわゆる突貫工事的に非常に短い期間で、その排水路の工事をやりました。工事期間、本当に三年ぐらいしかない期間でやっています。当初は開発者側の資金を出した人たちが、まずはその土地はその人たちのものになる、いい場所は幕府の所有地になるということで、その後にですね、新田の売り出しということになって、だんだんと、その地域の方たちにも。 土地が渡るようになっていきます。新田開発ってやっぱりそういう土地の投機目的みたいな一面もありますので。でもそういった人たちがいるおかげで、まあ資金があって、こういう大規模なあの工事ができたということもやっぱりあります。

工事の過程では、海水が逆流してきたり、周りの地域が水がなくなったりと困難もあったそうですが、排水工事による干拓が行われて出来上がったのが干潟八万石と呼ばれる新田で 萬力、鎌数、入野村など18の新田村が成立したそうです。徳川幕府はほかにも千葉県内で、完成には至りませんでしたが印旛沼の干拓や、利根川を銚子に振り向ける工事など大規模な干拓事業を行っています。

ちなみに旭市の小学生のみなさんはこの干拓事業についてはしっかり勉強しているみたいですよ。
猪野さん:この地域の小学生は、四年生になると必ずこの郷土の学習ということで、「椿の海」の干拓の歴史を勉強することになってます。皆さん来たりして、ここが湖だったんだよって話をすると、「僕のうちは昔湖だったところだ」って言って「僕のうちは湖じゃない」とかっていうことから、まず興味を持ってすごい見てもらえています。本当に今、「椿の海」の痕跡て全然ないですけれども、今、本当に一大農業生産地域として、あの本当にないものがないぐらいの、、、お米をはじめとして色んな野菜が取れるので、ぜひそういうのを皆さんに味わっていただきたいのと、土木技術の一つの遺産ということでも、あのこの広大な面積のところでね、、いろんなゆかりの場所ありますので、併せてですね、ぜひ訪れてきていただきたいというふうに思います。あのたくさん資料もありますので、 ぜひ記念館にも足を運んでいただければと思います。

記念館には、椿の海が干拓されてできた農地のひとつである長部村に定住、当時苦しかった農民の生活を助ける仕組づくりや道徳教育をし、指導者として慕われた大原幽学についての資料が展示されています。また、旭市の花は「椿の海」にちなんで「椿」なんですが、資料館の周りには3000本以上の椿が植えられているそうです。記念館がある大原幽学遺跡史跡公園の中には、当時の区割りを残す水田や、大原幽学の居住した旧宅などもありますので、あわせてごらんになると干拓の歴史がより理解できるのではないでしょうか。

JR総武本線に干潟という駅がありますが、これはまさに、この椿海の干拓地のことを言っていたんですね。干潟八万石は、灌漑用水も整備され、現在も九十九里平野の重要な穀倉地帯としての役割を担っています。秋には見渡す限りの黄金の稲穂が稔る 広い水田の中に、島のような集落が点在する風景を見ることができるそうです。「旭市椿海と干潟八万石の水田と農村景観」は、「ちば文化的景観」に選ばれています。この土地の歴史についてかかれた看板もいろいろ建っているということなので、広大な景色の中で歴史を学んでみてはいかがでしょうか?